あたりまえのスキル

 朝 目を開けると真っ暗なのでああ アイマスクを外してしまわないまま朝まで眠ることができたのだなと思う。マスクに指をかけてずらしかけるとおびただしい光量がこぞって目を突き刺すようになだれこんできて一度に取り去ることができない。徐々に、徐々に、ずりあげていく。ぱちぱち、まばたき、眼を開ききってみれば、それ程明るい部屋でもないので不思議なものだと思う。人間の目はくらやみに慣れるのに35分、ひかりに慣れるのには40秒。もういつものわたしの部屋だ。
 シルクのネコ型アイマスクがまもってくれたパーフェクトな闇につつまれて、だれとも隔離されたひとりの部屋で8時間ちかく連続して眠り、見た夢の記憶もない。なのにそれ程すがすがしい目覚めでもない。欲しかったのはこんなのじゃない、気がする。ここずっと、朝までぐっすり眠りたいと願っていた。自分の布団でならそれを果たせると思っていた。自室にこもってだれを意識することもなく眠ることがいまのわたしには必要なのだと感じた。だがそういう問題ではないのかもしれない。環境でなく、わたしの問題。内部の問題。これまで眠りに苦しむことのない人生を送ってきた。途方に暮れる。じょうずに眠ることができないだなんて、生きものとして落第レベルじゃないか。

 でもわたしたちには当たり前にできることなんてなにもないのだとも思う。きのう会いにいった友人の話を思いだす。彼女の家には0歳の赤ちゃんがいて、その子はなんどもしゃっくりをしていた。わたしも非常にひんぱんにしゃっくりが出るたちなので勝手にシンパシーを感じていると、彼女は赤ちゃんがお腹にいたころからよくしゃっくりをしていてそれはどうも呼吸の練習らしいのだ、ということを教えてくれた。人間にとってあまりにも必須の息をするという行為すら、生まれ落ちてハイ本番! でいきなりできるわけではないらしい。
 そして眠りの話もした。赤ちゃんはよく眠くなると泣くけれど、それは眠ることが死ぬことに似ていて怖いから、と言われているそうだ。入眠もひとすじなわではいかない。
 2本の足で歩くのも、気がついたらできるようになっていてそれが今やあたりまえだけれど、それが幼少期のトライアンドエラーの積み重ねなのは明らかで、その結果発達したほね? 筋肉? によって可能になっているはず。そしてそれも、ギブスなんかで固定してしばらく動かさずにいるだけでかんたんに、普段の動作すらおぼつかなくなってしまう。話すことだってそういえば、しばらく誰とも話さないでいるとどうやって発声したものかわからなくなるとか聞くし。

 わたしが眠りについて苦しんだ経験がないのはたまたま幼少期のわたしが眠りの優等生だったというだけのことだろう。あるいは記憶にないほどの幼いむかしに苦労のすえつかみとったスキルなのかもしれない。いま眠れないのならまた練習をするしかないのだ。基本に戻って眠りの練習。「普通に眠れないなんておかしい」などとごうまんなことを言っている場合ではない。
 あたりまえにできることなんてひとつもない、そのことは人生を途方もないものに見せてもくるが一方でずいぶんと気を楽にもしてくれる。


 わたしには練習しなおさなくてはいけないものが、他にもいくつもあるかもしれない。

yet

 音楽をきくようにしてみた。アイフォンに音楽をちっとも入れていなかった。手元のかばんに常に入っていたイヤフォンは底でくすんで絡まっていた。音楽をきくという行為が最近の自分とどうもピントが合わなかったのだ。たんに元気がなかったのかもしれない。音楽は侵入してくるものだ。ちからの低下しているわたしはありとあらゆる侵入を拒絶した。耳に入る音や声のすべてがきつい。誰かの陽気なくちぶえも、風の吹き入る音ですら。混んだ電車で触れてくる他人の服の裾がつらい。見知らぬ人のたばこのけむりがつらい。予期せぬあらゆる香りも。わたしはわたしの和室をしめきってあるまじろのようにすべてから身を守り眠った。いつからこんなことになってしまったのだろう。どこでもいつでも誰とでもどこにでもいけて何をきいても誰と眠ろうとそこなわれる感覚などないわたしだったはずなのだ。わたしがわたしである意識がどうにもわたしをつらくする。それでも自分がない状態よりましなのだろうか。わたしにはよくわからない。だがどうやら音楽は聴けるようになった。クラムボンのあたらしいアルバムを聴いた。夫からひと月も前にプレゼントされていたものだが正直さわりも聴けていなかった。きいてみれば勝手に警戒していたほど体力を消耗する音楽ではなかった。自転車に乗りながら聴いたというのもあるだろうけれど。拍子抜けなくらい、とても良くて、急激に音楽と自分のピントが合っていくのを感じた。

 いまならわかる。わたしは、そんざいしないかもしれない無数の侵入者からみずからを守るための殻が重たく歩くのも精いっぱいだ。ただこっけいなひとりずもうをとっているにすぎないのだ。これが他人なら横目でみて通りすぎながらばかなやつと鼻で笑う。でも他ならぬわたしなので付きあうよりしかたがない。自分でつくりあげた殻をなだめすかして、そのうちやわらかい膜のようになってくれたらいいと祈りながらのろのろと歩みをすすめる。

20150430

 遠すぎない仕事先には自転車を使うようにしてからさわやかな気持ち穏やかな気持ちがわたしに戻った気がしていた。なのに昨日また電車に乗ると前に立つ男女3人組のどうということもない会話が耳についてしようがなくいらいらして頭のなかに物騒なせりふが飛びかう(『だまれブス』『殺すぞ』)。元どおりだ。電車に乗るとこのように一度ごと3、4人を憎まないで帰宅できたためしがない。それで今日はまた自転車に乗ることにした。ペダルをこいで風をあびるとやはり自分を取り戻していく感覚がある。しかしわたしが今までに失ってきたわたしの総量は小一時間ペダルをこぐ程度のことで取り返せるものなんだろうか。だいいち取り返すだけの自分というのがここにあったのか謎だし。

 自転車で通りかかった目白のちいさな本屋さんで一冊の本を買う。その本の薄いけれどていねいなつくりに触れて思いだす。斜線ちゃんの文章ののったフリーペーパーがセブンイレブンネットプリントで出力できるのだった。だが詳細をツイッターに見にいくとすでに配布は終了していた。告知されてから何度もセブンいこう明日いこうと考えていたのにその都度忘れてこのざまだ。いつも大切なことから順に忘れてしまう。だって大切なことほど生活からは遠いんだもの。生きていくためのたくさんのこと。日々増えていくように思えること。食事を用意し食べて湯を浴び必要な長さの睡眠をとる。仕事のしたくと仕事、移動。それだけでたくさんになってさまざまの大切をあとまわしにして忘れてしまう。生きていくのに必須のことだけでたくさんにならない人びとにどんな秘訣があるのかわたしにはわからない。わたしはいつも必要に追われていっぱいいっぱいだ。きっとよくないことにちがいない。あした生きるためにまるで必要のないものごとをもっと身のまわりに置いていかなくてはならないと切実におもう。部屋をかざる花や緑。じゃまな置物。余分なデザート。遠いくにの物語。すべての音楽。

テーマというかブームというか

なんとなーくテーマみたいなものがある、5年周期くらいで。
それを軸に生きているかんじというか。その軸。


今思えばってことになるのかもしれないけれど
たとえば10代後半は全体を通してテーマ:承認欲求って感じで
なにをするにも誰かが自分を目にとめて気にしてくれることを前提としていて
なのでだれも見ていないわたし個人の時間の楽しみかたとかは
まるで重視していなかったというか。完全にテーマ外。
公言するための趣味づくりみたいなのはあったけど。
趣味のえらびかたで人の興味をひくことしか考えていなかった感。
今でもそれはべったり染み付いているけれども
基礎は当時つくられたのだなあという感じ。


20代前半はもうテーマ:恋愛。恋愛でしかない。
恋愛のことしか考えていなかった。
この世の森羅万象、恋愛のフィルターを通してしか見れない状態。
すべてを恋愛のためにせよ! みたいな。
まあ承認欲求と地続きではあるのだよね、順当順当。
ただ自分の存在を意識してもらうことばかり考えてきた人間にとっては
恋愛というのは非常に有効な舞台だったわけで。
恋愛脳なので男性という存在をつねに
バディを組む(??)かもしれない前提で見ていたし
ざっくりひっくるめてとても良いものとして捉えていたみたい。


恋愛脳時代はけっこう長くて
わたしはもうずっとこれでいくかもなあとぼんやり考えていたのだけれど
ここ2年ぐらいボッコーーン別テーマが立ちあがって戸惑っている。


20代終盤。
テーマ:女です。女。
いや私わからなかったの。男と女の決定的な違いって。
よく男vs女みたく対立させて論じられるけど、
いやそんな違わないでしょ??
人間ひとりひとりが違うだけでしょ、
男だからこう女だからこうとかじゃないでしょ。って思ってた。とくに精神面。
だからあんまり「男って〜」みたいなノリのガールズトークに入っていけなかったのかな。
「???」なってた。
わたしがそもそも女らしい育ちをしてきていないというのはある。
女としての自覚があまりにも薄かった。
わたしの場合身体の変化にとまどう的なイベントも大したことなくて、
胸はぜんぜん大きくならなかったし、
月経もなぜかサラっと受け流していたし。綿つめとけ! みたいな(雑)。
おなかいたくてもうずくまって野生動物のようにやり過ごしてあっけらかんとしていた。
女の大変さ…。みたく深刻にはとらえていなかった、
たぶんその頃は他に考えることがあって、それどころじゃなかったのだろう。
別テーマの真っ最中。
なんか、実存!!!!! みたいな。わたしの存在意義とは?!?!?! みたいな。


でもそういう個人的な嵐にひと区切りついて、
はーーってひと息ついた20代後半に顕在化してきた。
わたしの「女」が。
女のバイオリズムみたいなもの。
個人的にずっとばたばたしていたから感じられなかっただけで、
多分ずっとあった波なんだろうと思う。
でも27、28ではじめて自覚するとこの波がなかなかツラくて、
いや後回しにしてきたのは自分だし、
まわりのみんな言っていたことなのに甘く見ていたよ、
そのツケがまわってきたのはわかる。でもツラい。
わたしのまわりにいる聡い女の子たちに言ったらなにを今さらって笑われるだろうな。
とにかくそういう今さら感あるざわつきがあって、女の自覚が芽生えてようやく、
女は男とかなり違っているっぽいぞ! とはっとした。


男と女は違う。


そのあたらしい目であらためて殿方を見てみたら
あ……ほんとだ違う。ぜんぜん違う。という感じで。
きゅうに見えかたが変わる。
宇宙人を見る目で男の人を見るようになってしまった。
きのうまでうすぼんやりと同じ枠のなかにいると思っていた男のひとたちが
いきなりまとめて宇宙人に……。
もちろん親しいひとや、その前から友だちだった男のひとは
わたしにとってそのままその人なわけだけれど
電車や街ですれ違う男性に対する見方はかなり変わってしまったように思う。
人というより前に、男という枠組みでざっくり捉えてうわああ謎のいきもの!
として遠ざけてしまう。ようになった。


そうなってみるとそれまでもフツーに転がっていた
かるく女性を下に見るような男性の発言とか、無神経さとか、
突然過剰なほど見えたり聞こえたりするようになってきて。
でも実際にはそういうたぐいの男性ってそんなにいるわけじゃないのだ、
素敵な男性と素敵な女性は同じくらいたくさんいるのだ。
なのにわたしの目が耳が鼻は、
いやな側面だけを一生懸命収集してしまうようになった。なんでだ。


テーマ:女だし、そこから派生して
男vs女にもなってきている。発想が。
結局かよ! ってちょっと自分にがっかりだ。いやかなり。
男とか女とか関係なく気のいいひとたちとたのしくやっていこうよウフフ〜
みたいな姿勢でずっといられるわたしってイイ! と思っていたのに。
のに。うう。


でも今までもいろんなテーマかかえてきて、
5年単位くらいであーでもないこーでもない動いて感じて考えて、
それぞれにいちおうのめどがついてテーマの変遷、
という流れでやってきたのだから、
この「女」に振り回される日々にもどこかでふわっと落ち着きが訪れるんだろう。
だといいな。
そのときはまたどうせ別テーマが持ち上がっていると思う。
次なんだろう。社会と自分とかそのあたりかなあ(ぜんたいてきに遅い)。

メモ

疲れた……。気疲れってこれなのかってくらい、ひとりになってどっときた。実家の玄関を出て手を振る母親が見えなくなった瞬間緊張の糸ばっつん切れてぐんなりしてる。気っていうのがどこにあるのかわからないのでとりあえず内臓や脳を取り出して外に置いて雨ざらしにして洗い流したい(外は雨)。どうして実家にゆくとあんなに緊張して壊れたおもちゃのようにしゃべり続けてしまうのか。まったくもって理解できない。両親にはまずいところもあるがこれに関しては彼・彼女の責任じゃなくわたし側の問題だ、どうしてあそこにいるとわたしはおかしくなってしまうのか。いや、もうどうしてとかじゃなく、そうなってしまうものとして考えたほうがいいんだろ。どうにかなるものじゃないんだろ。実家行くの最小限にしたらいい、なんなら行かなくたっていい、自分から自分をまもれるのも自分だけ。

生かされてきた

だれかを自分のなかに住まわせるの疲れてしまった。わたしって本当よくそと出られるなってレベルで人づきあい苦手でうまいこと受けこたえなんて一切できないしちょっとでも「ん?」て顔されるとわーわーーっってちょうぱにくっちゃうもー真っ白。まわりのうまくできる人が人と話すのみてすごいなーふーんそういうふうに言うのかーなんて感心することばかり。だからそういう身近な人を自分のなかに住まわせる、ていうか、インストールする感じ、コミュニケーションプログラムをインストールって感じで、誰かになにか言われたときわたしはすぐえっと…と考えて〇〇ならこう言うなきっとって台詞や動作を思い浮かべてそれを言ったりやったりする。そういう外交してきた。うまくやるためのリアクションをとることしか考えてきてない、考える余裕なかったのだ。じっさい自分の気持ちではどう反応していたのかなんていうのどうでもよくてただつつがなくうまくやりたかった。それはそれはうまくいったんでどんどんインストールインストール。いろんな方になかに住んでいただくようになった(勝手に)。とかやっていたら本当に自分の気持ちがどこにあるのかそもそもそんなもんあるのかわからなくなり、わたしてなんだ。みたくなってる今。どうしたいのか考えるときも優秀なプログラム〇〇さん:「それはいいね」●●:「俺はそーいうの嫌い」とか思い思いに発言していて、それもわたしが勝手につくりだしたわたしの思う〇〇さんや●●でしかないんだけど、とにかくそのご意見に沿ってしまうしそれ以上のこと思いつけなくなってるのだ。○○●●◎◎のひしめくわたしの中で本来のわたしとやらはもうみなさんにお任せしますとばかり小部屋にひきこもっちゃって出てこない、何も言わない、ごはんだけ食べてる。ぜんぶわたしの怠慢だ。

このままだめになる

このままわたしだめになるのかなっておもったらかなしくなってきた。だめだわたし。だめだめだ。なにがだめじゃないよいものなのかは全くわからない、よいひととはどんななのかもせつめいできない、でもいまのわたしがだめなのはわかる。わかっちゃう。仕事はしてるし好きだとおもう。それだけ。いまそれだけしかない。仕事以外では夫としか会わずにくらしてる。だれとも遊んでない。しゅみもとくにない。本をよんだり映像をみたりすることはある。それもあまり深く入ってこなくなっちゃった。皮ふをえぐってささるものを摂取できなくてとおい世界やむかしの世界のものばかり読んでしまうし観てしまう。仕事のまえや後はながいひとりの自由な時間があるのに何がしたいのかわからない時間がどんどんすぎてく、どこかに行きたいような気がしながらどこにも行かないで家にいる。ネットショッピングとかしてる。わたしはいまどういうひとかって、仕事はしてるひと。ただそれだけ、それだけが支え。その仕事にしたってわたしは気がついたら丈夫にできてたじぶんのからだにぶらさがってやり過ごしているだけのようなものじゃないか。かなしくなってきた。ほんとうに、かなしくなってきた。ともだちに会いたい、だめになったわたし、会いにいけるのかな。