ドア

 朝、机の前にあぐらをかいて、YouTubeでアニメを観ながら、ゆっくりとマスカラを塗っていたら、部屋のチャイムが鳴らされた。ピンポン、ピンポーン。軽快に2回。宅配便が来る予定もない。新聞の勧誘か何かかもしれない。そう思ってあたしは、足音をたてないように玄関まで歩いていき、のぞき穴から外を見てみた。最初に丸い視界に入ってきたのは、真っ赤な薔薇の花束だった。うすいドアの向こうがわ、その包み紙ががさがさと音をたてる。来訪者は花束を持ち直すように傾け、それでその顔が見えた。来訪者は、2ヶ月前に別れた元彼だった。
 あたしは混乱した。彼は海外にいったはずではなかったか。1週間前に「しばらく海外にいってくる」とのメールが届き、それ以来、無視をしていても立て続けに何十通も送られてきていたメールも止み、ああ、よかった。あたしが彼を必要としなくなったように、彼もあたしが必要なくなったんだな。そう思っていたのに。
 のぞき窓から彼の顔をいっしゅん見ただけで、あたしはドアから飛びのいてしまった。強い嫌悪感がこみあげてくるのを感じた。部屋のすみで息をひそめて、来訪者が去るのを待った。そのあいだに一度、がちゃん、ドアノブが引かれた。肩が震えた。10分して、もう出なければならない時間だったけれど、彼がまだドアの外に、あるいは近くにいるかもしれないと思うと、どうしても顔を合わせたくなくて、更に10分ほど待って外に出た。ドアを開けると彼はもう去ったあとで、駅まで歩くあいだも彼に会うことはなかった。

 電車に揺られながら、彼と同棲していた2ヶ月間を思いかえしてみた。あのころ、あの部屋は牢獄みたいだった。こんな言い方はフェアじゃないかもしれない。自分も望んで彼と暮らしていたんだから。それでもそう思ってしまう。
 付き合い始めたころ、彼はあたしのことを、まるで双子の片割れみたいだと言った。そして実際、幼い双子のきょうだいみたいに、いつでも一緒にいることを望んだ。家に帰れば毎晩会えるのに、昼のあいだも仕事先からひっきりなしにメールが届いた。あたしは授業もあり、返信することは少なかったけれど、お構いなしに受信メールは積もった。
 彼はあたしが彼のように感じ、思考し、行動することを望んだ。なにもかも同じでないと気がすまなかった。あたしとのあいだにひとつでも相違点を見つけるとかんしゃくを起こした。
 たしかにあたしたちは似ていたかもしれない。旅行が好きで、本が好きで、内向的で、自己嫌悪が強くて、恋愛中毒で。わかりあえる部分は多かった。でも、あたしはあくまでもあたしでいたかった。同じでなんかなかった。ひとつになんてなりたくなかった。あたしはあたしとして、彼は彼として付き合っていたかった。そういう強い意志を持っていても、彼とのいさかいが続くうちに疲れはててしまったあたしは、彼の気に入る、彼と同じようなことしか言わなくなった。そうやって同化していく自分に気づいたとき、彼はあたしを食べようとする怪物に見えた。彼の待つ部屋が、怪物の待つ牢獄に思えた。大きな口をあけて待っている。ひとつになろうよって。それはおそろしいイメージだ。おおげさでなく、自分が消されてしまう気がした。それからというもの、部屋に帰るのが億劫になり、することもないのに外で時間をつぶすことが多くなった。友だちと飲む日も増えた。そのことに彼が怒り、あっというまにふたりは破綻した。

 今朝、あのドアを開けられなかったのは、ドアを1枚隔てた向こうがわに怪物がいると思ったからだ。

 この話は一方的に過ぎるかもしれない。彼にだって言いぶんはやまほどあるだろう。彼をそうさせてしまったのはあたしかもしれないし、あたしがわがまますぎたのかもしれない。けれどあたしは、二度とこの部屋に彼を上げてはいけない気がするんだ。この部屋は、大好きなあのひとが名づけてくれたように、“リバティールーム”でなくてはいけない。あたしと彼では、ここを牢獄にしてしまう。してしまった。もう二度とあんなのは繰り返したくないんだ。