なみだのいろ/アクセスポイント/あるいはグロテスクなパッチワーク/どせいさん

◆かなしいとき泣くわけじゃなくて、あ、もう処理できないな(感情が)、となったとき泣きます。だからわりとよく泣きます。怒りすぎたとき泣くし、いとおしすぎて泣くし、気持ちよすぎてわけがわからなくなって泣きます。だからあたしの涙にたいした意味なんかない、ただ流してるだけ、意味をつけてくれるのは他人で、あたしの泣くのをみて「かなしませてしまった」「さみしいおもいをさせてしまった」「いやなゆめでもみた?」て、ほんとうはそんなんじゃないんだけどこくこくうなずいて涙ぽろぽろこぼしてうまいこと、無色透明な液体にもぴんくいおにゃのこの色づけして、かよわい私・デビュー☆、晴れてあたまやさしくなでなでしてヨシヨシしてくれる大きな手をげっとするのです。
ばかばかしい。
クソほどタフなくせに。
じいちゃんばあちゃんの葬式じゃ少しも泣かなかったくせに。
だれにもなんにも期待してないくせに。
ペルソナ・ペルソナ・ペルソナに埋もれてあたしなんかしんじゃえばいい。


◆ひとりでどこにでもいく。ラーメン店だってバーだって寿司屋だってファミレスだって居酒屋だってワーナー・マイカルだって神宮だって山だって川だって。“さみしくない?”って さみしがってる時間はない、宙に焦点合わせたら、どこからだって自分の世界にアクセス可能、いつでもトランス状態、ラリパッパ。ことばやことばにできない図形や色が頭のなかにあふれてあばれだして、それだけで大勢と飲み会してるより騒がしい、から、そういう意味じゃ“自分がいちばんの友だち”。そんないいもんじゃないけどな。


◆あたしは今まで出会った人たちの、断片断片をつなぎあわせたような存在でありたい。オリジナルのあたしなんてーのは砂利のひとつぶみたいなちっぽけすぎるいきもので、でもぐりんぐりん転がるうちに雪だるま式におっきくなってきたとおもう。いまの自分を形づくるものはその付着した雪みたいなものがほとんどなんだという考えを持っている。転がる方向を選んだのは自分だし、付着するなと拒んだものも取り落としたものも振り払ったものもあるわけだから、環境がすべてを決めるなんて言いたいわけではない。写真やら手紙やら、あと身につけるものは特に、だれからもらったものであっても(元彼、絶縁した友だちetc.)捨てずにとっておく、どころか平気でデイリー使いするのは、おもい入れがあるからではまったくなく、自分の構成要素だから、なんだ。元彼が置いていったシャツにジーンズをはき、昔のセフレがくれたスニーカーをつっかけて、手首には後輩がくれた腕輪、首もとには好きだったひとがよく使っていた香水を、ipodからはあこがれのひとが口ずさんでいたうたを流す。その姿でふと鏡に映しだされてみると、“ああ。これがあたしだ。”という気がする。もちろん一般的に受け入れられる感覚でないのはわかっているので(無神経とおもわれそう)、全部自分で買ったものということにしているけれど。雪だるまのように泥だんごのように、自分をかたちづくる血や肉や、思想、装飾品、どんどん、転がっていくこの先の道でもひっついて、かさを増していけばいい。ひょーせつの積みかさねで、オンリーワンができあがるのよん。


◆なんかむつかしいことをかんがえよう これからのぼくは。