マーキング

 気づいてしまった。わたしは、他人の感情を揺らすことを生きがいにしている生きものだ。揺らすって感動とか、喜びとか、そちらにではなくて、怒りや悲しみといった、感情の針をひどく左がわに振れさせるほう。針の振れ幅が大きければ大きいほど、わたしは腹を満たす。
 このあいだ東横線の同じ車両に乗り合わせた若い男性は、真っ赤な顔を怒りに歪ませて(それはもう、ひと目で怒りとわかる形相だった)、手すりを掴むなり叫んだ、「あああああああああああむかつくなああああっ」。前後の車両の人びとまでもがそろって身を竦ませるような、おそろしく大きな声だった。わたしは驚いてどきどきしながらも、なぜか強く惹きつけられてしまって、目線を悟られぬようにそっと男性を観察した。白くなるほどに握りしめられたこぶし。赤い耳。漫符のように額に浮き出した血管。思った。うらやましいな。こうまで人を怒らせることのできる誰かが。
 わたしは好きな人や、好きと言ってくれる人には、定期的にひどいことをしたり・言ったりする。そうして相手の反応をみて、望む揺れを観測できたとき、高く笑う。目を見開いて。我ながらきっと醜い顔をしているのだろうと思う。わかっていても笑い声は抑えられない、だって嬉しいのだ。向けられたものが怒りでも、悲しみでも、憎しみでも、針の振れがゼロの位置に戻るまでの間、わたしは相手の頭の一部分を占めることができる。その威力は感動や喜びなどのプラスの感情よりも遥かに大きいと、わたしは信じている。
 つまりは傷をつけたいということなのかもしれない。わたしの言動で傷ついてくれるのは、相手にとってわたしがどうでもいい存在ではないということの、何よりの証明になる。存在の証明。うん。わたしは人を傷つけて生きたい。それも完膚なきまでに傷つけて。その傷の中にだけ、わたしは生きることができる。
 とはいってもわたしがつける傷はひっかき傷程度のものがほとんどで、だからこれはまだまだかわいい危険思想で済むが、エスカレートすると危ないよなあとも思う。わたしを好きだという人に、例によってひどく意地悪な言葉を吐いてみせ、「ねえもっと苦しい顔してよ、わたしのことで苦しむ顔が見たい」、そう言うと、望むとおりの表情を彼はくれた。しかし、昏い満足にふふふふと笑うわたしに彼はこう言った、「それは人体実験だ」。まったくそのとおり、人体実験だ。人の体を切り開いて、解剖して、目に見えるはずのない「わたしの存在」をその中に捜すためだけの。この実験には果てがない。一度傷をつける喜びを覚えたら、その傷が治ってしまう前に、また別の傷を刻まなければならなくなる。今度はもっと深い傷を。もっともっと沢山の人に。
 わかっている。この方法ではきちんと満たされることはいつまでもない。だとしても続けていくしかないのだ。わたしはそうすることでしか、自分の存在を確かめることができないのだから。爪を尖らせて、今日も生きている。