ハムソーセージおいしそう

 ひとりの人間のことをかんがえるとき、いつも数おくページある巨大な1冊の本を思いうかべる。本ごと本ごと、中にかいてあることはさまざまだ。文字だったり数字だったり図だったり、そのどれとも呼べないようなものもある。だけどどの1冊も、数おくページあるのは同じだ。そうおもう。
 本の中身をさらして歩いている人はそういない。みんな表紙と背表紙と、そしてときどき裏表紙をみせるくらいだ。表紙にわかりやすいタイトルがついている人なんかは、「わかりやすいやつだ」なんて言われたりする。けれど秘めたページの中身には、タイトルとまるでちぐはぐな、関係のない文字列がひたすらに並んでいたりする。そのことに、本人も気づいていないこともある。
 人と人のほとんどは、そうやって表紙だけの付きあいをしている。でもときどき人は、表紙をめくって本文を、他人にみせることがある。それは、年月のちからかもしれないし、「もっと知ってほしい」という気持ちからかもしれないし、読み手がわの「もっと知りたい」という情熱が、本を開かせたかもしれない。そんなふうに、どのようにしてかある巨大な本の1ページめが自分の目の前に晒されるとき、いざ読もうとして、必ずや苦労をするだろう。
 その本文は、知らない言語で書かれているかもしれない。おそらくは、そこでしか使われない言語で。
 ページじゅうにあふれかえるさまざまな文字・そのほかを苦心のすえ解読できたところで、物語のように筋道だてて、起ではじまり結へと向かいはしないだろう。
 凶暴な色で大きく殴り書きされた暴言もあれば、虫眼鏡がなければ見ることのできない、子供のらくがきみたいな絵もある。
 注釈がついている親切な本はほとんどないし、ついていたとしても、それはウソの注釈だったりする。
 たくさんの矛盾を・混沌を・宇宙をはらみ、あふれかえっている。
 読み切れるわけがない。一生を賭して読みつづけたところで、せいぜい半分くらいまでがいいところだろう。もっと少ないかもしれない。本の持ち主本人だって、中に何が書いてあるのかを全部知ることは到底できないのだから。


 本は読まなくたって生きていける。読まなくたっていい。とくにこれ程、読むのに労力を要する本なんかは。でも、読むと人生をゆたかにしてくれるかもしれない。そういう1ページに出会えるかもしれない。それは、巨大な表紙をよいしょ・よいしょと汗をかきかき持ちあげて、はりついてしまった項と項をぺりぺりていねいにはがし、辞書を繰りくり、苦労して読みとっていったひとにしかわからない。


 わたしは今までいくつかの本に、表紙だけみて「つまらなそう」と背をむけたり、読もうとするところまでいっても数ページさらっと目を通しただけで薄っぺらな本と決めつけて投げてしまったり、難解さにうんざりして閉じてしまったりした。それはそれでよかったこともあるのだろうけれど、もったいないこともいくつもあったと思う。
 今年に入ってまた、読みたいとおもう1冊の本を知ったけれど、その本はいつもは見もしないような、本棚の手が届かない高いところにあった。ふと目にとまったその背表紙は、暗い色の装丁がほどこされているけれど、木漏れ日がよく似あった。梯子の一番上までのぼって背のびをしてなお届くはずがないとなかばあきらめ気味に手を伸ばしたら、ぎりぎりで触れることができてしまった。伸びた手がふるえていた。
 手は届いたものの、今でもその本のことはよくわからない。表紙に走り書きされた文字はわたしには読むことのできない言葉で書かれていた。けれど、その本のたたずまいがわたしにはひどく魅力的で、とても読みたくなる、ということはわかる。今わたしはそこで使われる言語を学びはじめたくらいの段階だ。目の前に晒されているのはまだ、めちゃくちゃな目次くらいのものだ。それだってじゅうぶん光栄なことだけれど。
 そのうちもう読みたくなくなってやめるかもしれないし、本のほうが突然ばたむと閉じて、「もーいーかげんにして」というかもしれない。そんなときがきても(だいたい、くるのだ)、その本には数おくページあって、わたしはそのうちの数ページしか知らないのだということを、忘れずにいたい。そうおもう。