じいちゃん

 じいちゃんが死んじゃった。わたしの誕生日に死んじゃった。電話で知らせてくれた叔母の第一声は「誕生日だよね。おめでとう」で、それはどこかうつろな声だった。次いでかけてきた母も「ごめんね。誕生日なのに」といったけれど、わたしの誕生日なんてこれまで24回もあったし、これから何じゅっ回も訪れるものだ。でもじいちゃんは1度だけ死んで、そしてもう生きない。

 母も叔母もじいちゃんの子どもだ。声を絞りだすように実の父親の死を伝えてくれた叔母にわたしは「そっか……」と「うん、わかった」しか出せる言葉がなかったし、母にもごにょごにょと「今日はちゃんと休んでね」と言えたのみだ。

 知らせを聞いてからずっと、悲しむ権利について考えている。わたしにはその死を悲しむ権利があるだろうか。じいちゃんとばあちゃんは東北に、長男の家族と住んでいて、南関東のわたしがふたりに会うのは母の帰省に着いていくときだけだった。それも子どもの頃ばかりだ。子どものわたしはばあちゃんとはよく話したし、叔母の車でいとこも連れだって一緒に出かけたりもしたが、家をあまり出ないじいちゃんとは共にどこかに行った思い出はほとんどない。居間の定位置にいつもずんと座った無口なじいちゃんは、子ども心にいつも少し恐かった。田んぼと畑を持つじいちゃんの朝はとても早く、夜は決まってまだ暗くなりきらないうちに寝室へ行った。だから何日もその家に泊まらせてもらっていても、顔を合わせる時間はごくごく短いものだった。わたしたちが関東に帰る日になるとじいちゃんはぽち袋に入れたお金を渡してくれるのだが、そのときですらほとんど何も言わないので、わたしはもらっていいものかいつもわからないまま、それでも母にうながされ「ありがとう」とひきつった笑顔で受け取った。そんな帰省も中学、高校と上がるにつれわたしが着いていく回数は減り、ここ6年ほどはいち度もふたりの家を訪れなかった。半年に1回くらい電話で話す程度で、それもひとこと、ふたこと話すとじいちゃんはすぐばあちゃんに替わる。その電話もわたしが実家を出てからはしなくなってしまった。ストレートにいけばまともに働いている齢なのに、いまだに学生を続けているわたしは、真面目という言葉を体現するかのように生きているじいちゃんたちに会うことも、話すこともとにかくうしろめたく、連絡をとることを怠っていた。そのうしろめたさは連絡を怠っているうしろめたさとあいまって、わたしはどんどん連絡をしづらくなっていた。そしてこの春、じいちゃんが倒れた。

 ずっと連絡さえしていなかったのに、倒れたと聞くと新幹線に乗って見舞いに行った。調子のいいやつだと罵倒されても仕方ないと思った。しかしじいちゃんはそれどころじゃなかった。管に塞がれて、声も発することができないじいちゃんがいた。見舞いすら身体の負担になったのではないだろうか。わたしは母がするのを真似て、ベッドサイドからじいちゃんの肩に触れた(手は何かの袋に覆われていたので肩しかなかった)が、触れながら「いいのだろうか」と思っていた。手術後で、絶対安静で寝返りもうてないじいちゃんに、わたしなんかが勝手に触れていいのだろうか。やめてくれって思いやしないだろうか。「ごめんなさい。疲れさせちゃうね」と言って、すぐに手を離した。わたしたちが話しかけるたびに心電図の数値(それがなにを表すのかはわからないけれど)が上がるので、それ以上負担にならないようにと面会は10分足らずで終わりになった。

 わたしがじいちゃんにしたことなんてそれくらいだ。子どものころから遊びにいってもまともに話もできず、それなのにお小遣いや、お年玉を貰って、大人になったら会うことも電話さえもしなくなって、本人にとっては疲れるだけだったかもしれない見舞いをした。そんなわたしに、じいちゃんの死を悲しむ権利があるのか。それだけのことを今までしてきたろうか。

 昨日の昼、知らせを聞いたその後すぐ、わたしは中断していた化粧に取りかかった。「うわー、まじかー」なんてつぶやきながら。鏡に映るわたしの顔は平然としたものだった。悲しみに蓋を。涙腺に堤防を。わたしは悲しいと感じる権利がないし、涙を流すだけの思い出も持ちあわせていないのだから。

 でも、夕方には決壊した。そういうことじゃなかった。会った回数が少ないから、話した時間が短いから、悲しむ材料がないはずだとか、そうじゃない。

 正月の席で酒を飲んで赤くしていた顔とか。わたしの名前が走り書きされたぽち袋とか。わたしはそれをずっと捨てられずに取っていたこととか。田植えをさせてもらっていたときにこちらを見ていた、何か言いたげな顔つきとか。いつも居間のこたつの上に置かれていた読み終わりの新聞とか。テレビが観やすい特等席。母がときどき聞かせてくれたじいちゃんの話。じいちゃんの作った米の味。思いだされてぼたぼた泣いた。それらのどの記憶の中でもじいちゃんとわたしは話したりしていなかった。それでも涙はばらばら落ちた。

 わたしはわたしに、じいちゃんの死を悲しむ権利を認めることはできないけれど。なんのことはない、わたしはじいちゃんが好きだったのだ。うーむ。盲点だった。ま、今なら何とでも言えるのだけど。

 こんな子どもじみた追悼文を打ちながら、東北へ新幹線で向かっている。隣で父が地震陰謀論を熱く語っていて困る(笑)。

 ハンカチは持たないできた。もうじゅうぶん泣いたから。わからない、また泣いてしまうかもしれないけれど。

 いってきます。明日が晴れだといいな。なんとなくさ。