2008

その日わたしはひとりで舎人公園にいた。夜会う予定の恋人(夜だけの恋人)は彼女と出かけていて、たしかにデートにはぴったりのすばらしい陽気だった。6月。
バイク置き場にグラストラッカーを停めて、にぎわう園内を歩いてまわった。
大きな池のまわりは釣り竿で混みあい、「釣れてるとこみたことない」と彼が言ったとおりバケツに魚らしき影の見えるものはない。子どもは仕掛けた釣り竿を大人に任せきりにして子ども同士で遊び、大人たちはそこでまどろむか本を読みこんでいるかだった。
はじめてひとりでバイクを運転した興奮と緊張でふわふわとざわついた脚はアスファルトの感触を喜んで、わたしは意味もなく駆け足になり、ウォーキングおばさんたちを追い越して丘をのぼった。
なんだかひとりがとても楽しく思えた。昼過ぎまでは大学の子たちと一緒にいて、けれど今のほうが何倍もわたしはいい。笑っちゃうくらい、ひとりがわたしは平気だ。
丘の頂上のシロツメクサの中に横たわれば空はもう夕の色。足立区の夕焼け空は大きく広がってきれいだ。

夏草の上をぞりぞり転がりながら西日を浴びているうち、しかし、急に冷めてしまった。
彼ときたときはすぐにいくつも見つかった四葉のクローバーが今はひとつも見つからない。白くかわいく咲いていた花も今はばらけて茶ばんでいる。そして彼は今。
こんな所にいるのが途端にばかばかしく思え、日が沈んだら運転もこわい、と理由をつけて早々に退散した。









彼とはいつも細かい約束はしなかった。
会うのはわたしの201号室で、「夜いっていい?」「おけ、寝て待ってます」という感じが常だった。
夜が何時を指すのかは彼が合鍵を回すまでわからないし、または気が変わって来ないかもしれないので、わたしも待つともなく気ままに過ごす。
そういう気楽な感じを、わたしは彼に対して演出していたかったのだけれど、舎人公園からバイクにまたがりすっかり暗くなった部屋に帰って食事を済ませロフトに寝転がって近い天井を睨んでいるときにはもう「寝て待ってます」は強がりでしかないとわかっていた。







深夜になって肩がすこし陽に灼けた彼がやってきたときは、たしかいつも通りねむたげに「やっほう」と出迎えたはずだ。
ふたりで肉を焼いて食べてばかなことを言いあいながらビールを飲んだ。
けれどさっきまでひとりでいたロフトにふたりで上がって抱きあう段になるとわたしはいつもよりきつく彼の胸にしがみついていた。
笑っちゃうくらい、ひとりがわたしは平気、それはそうなんだけどこの、夜の恋人に関するときにははっきりと嘘だった。















舎人公園の夕焼け、暗い天井、そういう景色をときどき思いだすのはとうに人生が遠く遠く離れてしまった彼を想うためではなくて、あの静けさ、あの昏さのど真ん中でどこまでもひとりだと感じていたこと、それが今もわたしの中で生きているのだ。
人はひとりだということ。
それってうん、やっぱりすこし、平気ではないよね。