スーモくんかわいい

 ひとり娘のわたしだけれど実家ではなかなか部屋を与えてもらえず、両親と川の字で寝るのがけんかをした日なんかは地獄だったし、そうでない日も思春期の人間にはそこそこ地獄だった。実家が引っ越して中学3年生で待望の部屋を与えられたもののどうしても自分の場所になりきらず(当然だった、そこは不仲な両親の所有物なんだから)、だからわたしはバイトでお金を貯めてアパートの一室を借りたのだった。
 白い枠の出窓と白い梯子で昇り降りするロフトのついた小さな部屋。わたしはその部屋を愛した。小さいころに持っていたささやかなドールハウスを愛したように愛した。感じのいい白で統一された部屋に合わせてIKEAの子ども部屋のコーナーで明るい色の家具を買い、おもちゃみたいなやかんやフライパン、子どもが一番最初に握らせてもらえるナイフのような包丁で料理をしてはそれをにやにやと眺めた。わたしがそこでしていたのはおままごとだったのだと思う。料理をしても、洗濯をしても、買い物に出ても、実際的な生活の臭いは少しも立ち上ることはなく、おままごとをしているときの楽しさばかりが共にあった。生活をするためにお金を稼いできてもお札はなんだか子ども銀行の紙幣みたいで、現実味がなかった。にんじんを切っても包丁はプラスチック製で、切断面はマジックテープで、ドールハウスに住むシルバニアファミリーのうさぎの女の子がそれを食べる、みたいな、自分はそれを眺めている、みたいな……自分のことなのにわたしはドールを動かして遊んでいるだけ、みたいな感覚だった。お金をかけたおままごと。そんな一人暮らしをしていた。かわいいかわいいお部屋のなか。
 今でもわたしはおままごとを続けていると思う。一人暮らしではなくなって、家もあのドールハウスみたいな部屋からはふたまわりも大きくなった。あのころのおもちゃみたいなキッチンでしていたよりもちゃんとしたご飯も作れるようになった。なのに、まだ遊びでやっている感覚が抜けないのだ。でもそれも半分くらいまでだ。ここ数年わたしからは生活の臭いがするようになった。現実という言葉の意味がわかるようになっていた。今の家はふたりでひとめ惚れしたとても素敵な家で今度はドールハウスならぬログハウスといった装いで、家のある町もまたいいところで気に入っているのだけれど、「現実的にここで2人暮らしていくには限界がある、もっと広い部屋を探そう」とわたしは言いだした。物件を検索するときは広さや機能性、水回りの綺麗さを重視した。おままごとだったらかわいさ、雰囲気だけでよかったのに、生活していくことを考えるようになっていた。わたしはそんなわたしに戸惑っているのです。わたしの知っているわたしと違う。わたしが知っているのはいち生活者などになりえるわけがなくて、生活らしいことをしてもせいぜいままごと遊びにしかならないわたしだ。ずっとシルバニアで遊ぶ子どもの気持ちでいるのだと思っていた。
 まあ当たり前にわたしも変わっていくし、ずっと同じでもずっと子どもでもいられないということなのだろう。そんなことを思い知ってようやく受け入れはじめたところだったりします。とはいえ残り半分はまだまだおままごとのままだから、せっかく物件を見に行ってもやっぱりいやだーどんなに広くて快適でもこんなときめきのない部屋はーとだだをこねて現在の家に逃げ帰ったり、かと思えば今度は全く条件を満たしていない木造家屋にときめきすぎて彼氏にたしなめられたり。suumoで物件を探す日と、いややっぱりこの家最高だし離れようなんて考えたわたし馬鹿じゃないの?! と思う日が交互にきて揺れ動くこのごろだ。ずっと今の家で暮らすわけにはいかないのだからいずれ、近いいずれ、新しい部屋に移ることにはなるのだけれど。現実的な生活のある部屋に。それまでは、ままごとの心と生活の狭間で思う存分揺れておこうと思う。決断を下さなくてはならなくなるその日まで。……物件の次回更新日まで(←現実)。